社長プロフィール

1964年2月4日生まれ。
辰年、みずがめ座、A型。

座右の銘
「侠気」
よく思い浮かべる言葉
「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」、「初心忘れるべからず」、「笑う門には福来たる」
影響を与えた言葉
「少年よ、大志を抱け」、「大器晩成」
代表取締役社長 川北辰実代表取締役社長 川北辰実

 
 
 

当たり前のことを当たり前にし続けることが最高の付加価値だと気づき、そういう会社になるまでの七転び八起きの物語

仕事をする意味って何なんだろう?

高校卒業後、自動車部品メーカーに就職したんですが、その時に考えたのは「仕事をする意味って何なんだろう?」ということでした。

そこの会社の定時は8:00~17:00だったのですが、16:45くらいになると多くの人が帰り支度を始め、17:00前にはタイムカードの前で17:00になるのを待っていました。仕事の質というより時間いればお金がもらえるという感じでした。毎日毎日を一生懸命仕事をしても評価は年に一回だけ。昇給額もそれほど仕事の能力で差がつく訳でもなく、何か物足りなさを感じつつもやりたいこともなく、なんとなく働いていました。
親からは「とりあえず何でも3年は続けろ」と言われていたので、3年経って辞めました。その時も何かあてがあった訳ではないですが、高校生の時から漠然と「何か自分でやりたい」と思っていたので、何かを見つけようとフリーターになりました。結局はまた同じような会社に勤めることになりましたが・・・。

高校卒業後、自動車部品メーカーに就職

農家の長男ということもあって、家を継ぐのは当たり前という感覚で育ってきました。親からは、「結婚するまでは親の責任。ええ加減な仕事をしていては嫁がこない」と言われていたこともあって、就職したのですが、そこでめでたく結婚することもでき、子供が生まれたのを機に転職することとなりました。

今度は家族を養うという責任があります。生半可なことはできません。今度こそ何か自分でやろうと、色々なアルバイトをやりました。その中の一つが宅配便配達というアルバイトでした。

最初は時給750円で、その時給分は働かなくちゃいけないと、一生懸命やりました。でも、ボーっとしていてとりあえずいればいい、というアルバイトの子もいる。じゃあ自分も同じように適当にやればと思うんですが、それでは自分自身が許せない。でもなんかあほらしいな、というジレンマを抱えながら仕事をして、そろそろ辞めようかな?と思いだした頃に「亀山地区を請負で誰かやらないか」と呼びかけがあったので手を挙げたのが、カワキタエクスプレスの第一歩です。

請負でやりだして「仕事って楽しいなー」って思いました。

請負でやりだして「仕事って楽しいなー」って思いました。何が楽しいかというと、まずやったらやった分の見返り(報酬)があったということと、時間に縛られず自分のペースで仕事の段取りが組めるということでした。

でもまだその頃は仕事をする意味はあまり分かっていませんでした。とりあえず商売しだしたことが面白い、そんな感じだったと思います。

仕事をする意味に気づく

お百姓さんの小屋を借りて始めたのですが、そのうちアルバイトを雇うようになり、倉庫を借りることになりました。仕事も順調に増え、そこそこお金にも困らなくなって考えたのは「楽して儲ける」ということ。そこで株とか先物とかにはまりだしました。1年くらいやりましたが、損をして「なにやってるんだろう?」と仕事や人生の意味を考え始め出しました。

本を読んだりセミナーに参加したり、いっぱい勉強しました。それまでは漫画以外は、一年に数冊を読むか読まないかだったんですが、一週間で5冊くらい読むという具合に・・・。

最初に起業ではじめた社屋の跡地

環境問題にも興味を抱き、今でいうNPOみたいなものも立ち上げました。自分達でセミナーを主催したり、環境にいいと言われるものを販売したり、勉強会のようなものを開催していました。

その時の本業はもちろん宅配便の配達だったのですが、この仕事に将来性を感じずに、環境にいい事とか人の役に立つ何かを仕事にしていきたいと思いながらそんな活動をしていました。でも、ある日気づいたんです。環境や人にいいことをと言って活動している人達が誰かの悪口を言ったり、何かを批判したりしていました。それって何か変じゃないかって。どんな仕事をしていようと、その仕事を通じて環境や人に対して優しい経営をすることの方が大切じゃないかと思い始めたんです。

宅配便をはじめとする運送業界に未来がないと思ったのは、限りある資源を燃料にして、排気ガスをまき散らかして、渋滞や事故を引き起こしているって、まったく良くないことをしていると思っていたからです。でも、よくよく考えると、物流が止まったら日常生活が止まってしまう。それだけ重要な責任ある仕事だから、人の営みがある限り誰かがしなくてはならない。それなら、そんな仕事をしている人が、環境のことを考え、人に役立つことや喜んでもらえることを考えれば、世の中もっとよくなるんじゃないか。限りある資源も少しでも少ない量で済むように、排気ガスがあまりでないトラックを率先して導入するとか、事故が少しでも減るように人材教育をするとか。そんなことを一生懸命やっている運送会社になれば、未来に少しでもいい環境を残せ、人に優しい社会になっていくんじゃないかと思い、安全や効率、お客様に喜んでいただける会社作りを始めました。

そう簡単には進まない・・・

とは言っても、そう簡単には進みませんでした。当時のスタッフにそんなことを言っても伝わらない。基本的にみんなお金が必要だから仕事をしている。どんな考え方でも仕事をちゃんとこなせばいいじゃないか、という感じで、まったく理解を示しません。

そこでじゃあお客様に喜ばれるような人になったら給料が上がるというような仕組みをつくれば勝手にそれを目指してくれるんじゃないかと思い、当時の社員数は5人くらいしかいない会社がいきなり一回訪問したら30万円というような一流コンサルタントに依頼しました。

伸びる業績。広がる社員との温度差

みんなに意識を持ってもらおうと「一回30万円、計10回くらいで仕組みを作りたいので心して取り組むように」と伝えましたが、聞こえてくる社員の陰の声は「そんなことにお金を使うくらいなら俺らにくれればええのに」という話。結局、自分の意識がまだまだ足りないということに気づかされ、半分くらいで断念。仕組みはできないまま止めました。

それでも少しは何かを感じてくれただろうと思っていた矢先に、突然社員が「辞めたい」と・・・。理由は「なんか人間関係がごちゃごちゃしてやりにくい」正直ショックでした。そしてその頃から、事務所荒らしは入るは、社員も定着しないはと負のスパイラルに入っていきました。

そんな流れを変えたいと思っていたところに、事業拡大の話が舞い込んできました。それまでは亀山市内の配達だけをしていたのですが、鈴鹿市にもエリアを広げないかという話でした。市場は3倍です。二つ返事で引き受けました。

ところがちょうど鈴鹿営業所をオープンする頃にプライベートな事情で自分のやる気がなくなってしまいました。数年前とは意味が違いますが「仕事をしていく意味」を見失ってしまいました。大きな意味での役割、お客様に喜んでもらうために、あの会社があってよかったねと言われるような会社になるためにという目的を見失った訳ではありません。そういうことを理屈では目指しているつもりでしたが、なんとなくパフォーマンス的な感じで深くは理解しておらず、自己満足でカッコばかりつけていたような・・・。結局、身近な人の幸せも考えていませんでした。

社長のやる気がないとどうなるか?社員教育もどうでもよくなり、ただ仕事をこなしてくれればいいという感じでどんな人であろうが入社させました。自分自身もただただ業務をこなすだけ。毎朝起きる時には「今日は仕事いくのやめようかな」って思っていました。あの頃はまだ「うつ病」という言葉も聞かなかったので病院にもいきませんでしたが、今なら間違いなくうつ病と判断されたと思います。

そんな状態なので、仕事の品質が落ちクレームは増える。それでも何も変えようとしませんでした。そんな状態になれば当然仕事が減っていきます。仕事が減るということはお金もなくなっていくということです。

広がる社員との温度差で辞める写真も

約2年くらいそんな状態が続きました。1年を過ぎた頃からだんだん経営的にも厳しくなり、怪しいカードも作ったりして何とか資金を回していたのですが、いよいよそれもままならない状態になっていきました。廃業するのか本気を出して続けるのかというところまで追い詰められました。

少し話は戻りますが、鈴鹿営業所を作るときに同業者の協同組合を作りました。この業界というのは横のつながりというのも大切で、色んな情報交換や仕事のやりとりをして、一社ではできないことを保管しあいながら共同でやっていくということで仲間を募り立ち上げました。

立ち上げたと同時にそんな状態になったのですが、今思うと仲間がいたおかげで廃業もせず、もっと言えば死ぬこともなく続けられたのだと思います。

いよいよ追い詰められて、このままでは先祖代々引き継いできた家も失うことになる。これはやるしかないということで、仲間たちに知恵をもらいながら、もう一度立て直す覚悟を決めたのが2002年12月。会社の通帳残高が8500円しかなかったあの時が、実質、運送会社としての第一歩を歩みだした時だったと思います。

やる気にはなったものの、毎朝起きるときは不安でした。「またやる気のない自分に戻るんじゃないか?」「今日も一日頑張れるのだろうか?」と思う毎日が続きました。そんな不安を払拭するために、心理学の勉強をしました。

お金に対する考え方も変わりました。それまでは、儲けるというのは何かきたないことで、理想を追求することだけがすばらしいと思っていましたが、お客様にしたら少しでも安い方がいいし、社員は給料が高い方がいいに決まっています。理想を追求するにしてもやはりお金とのバランスが大切で、きれいごとだけでは事業はできないという事にも気がつきました。

 

その時にようやく過去の自分がうまくいかなかった理由がわかりました。結局相手のことを考えているようで何も考えていなかった。それは家族をはじめ、社員、お客様に対しても。理屈としてどれだけ正しくても人間には感情があります。言っていることややっていることがどれだけ正しくても、気持ちが伴っていなかったら、相手には伴っていない気持ちが伝わります。私自身が、社員が誇りを持てる会社・業界を目指していると言っている自分がかっこいいと思っていただけで、本気では目指していなかったのです。

それからはどうすれば社員がやりがいと誇りを持って仕事ができる会社、お客様に喜んでいただける、お客様から必要とされる会社になるかと考えながら、色々な仕組み作りや話し合いを重ねながら試行錯誤を続けてきました。とりあえず仕事量を増やすことを優先にしながら。

そのまま順調にいくかと思っていたのですが、そうはトントン拍子にはいきませんでした。私自身が気づいたところで、それが社員にまで落としこまれなければ実現しません。仕事量は増え、社員も増えてはいったのですが、どうも何かがしっくりこない。社員もやる気を持ってやってくれているのですが、お客様に喜んでいただく仕事をするというより、いっぱい運べばいい的な空気になっていました。何度も何度も、仕事は何のためにするのか?お客様が喜んでくれること、何か役に立つことをしたお礼が自分達の報酬になる。お客様からすれば運ぶというのは当然のことで、もっと付加価値をつけなければいけないと言い続けてきました。

言っても言っても何かがわかり合えない。そんな感覚を持ちながらもあきらめずに言い続けてきました。今から3年前と比べると社員が半分以上が入れ替わりました。そうやって少しづつ変わり始め、ようやくお客様からいい評判がいただけるようなサービスが提供できるようになりました。

カワキタエクスプレスを支えてくれる社員

ずいぶん長い期間がかかりました。運ぶことは当たり前で、何か付加価値をつけたサービスが提供できる会社にならなければ生き残れない。それにはまず当たり前のことが当たり前にできなければ付加価値も何もないと思ってやってきたことで、まだ完ぺきではありませんが、他社よりはできるようになってきました。そして、気づいたのです。当たり前のことを当たり前にし続けることが最高の付加価値なんだと。だから、これからも当たり前のことを当たり前にし続けることに全力をかけていきたいと思っています。

代表取締役 川北辰実

 

 

 

 

幼少時代 あまり自分の気持ちを出す方ではなく、周りからは「おとなしいねー」って言われてきたが、自分的には「そんなことないのに」と何か秘めたるものを持っていた。
小学5年生くらい それまでちょっとやんちゃなグループで遊んでいたが、なぜかある日を境に無視されるようになり、やがて、同学年で話をしてくれる子が一人もいなくなった。その後、余計に自分の想いを秘めるようになった。同時に人を信じられなくなった。
1976年3月 三重県津市立大里小学校卒業
中学時代は、特に何かを頑張ったとか楽しんだという事もなく、なんとなく流されて過ごしていた。ただ、愛読書は「成り上がり」と「人を動かす」と本宮ひろ志氏の漫画で、「永ちゃん」と「硬派銀次郎」に憧れ、そんな男になりたいと思っていた。
1979年3月 三重県津市立一身田中学校卒業
高校一年生の時、駅で他校の生徒と危ない人達も参加し警察も出動するような乱闘騒ぎに。その後、たまたまカッコつけて学校の便所でたばこを吸ったのが見つかり、同学年初の謹慎処分に。その後はわりと静かに高校生活をおくった。
1982年3月 三重県立亀山高等学校 普通科卒業
増田製作所鈴鹿工場入社。
溶接工として2年間勤務。
特に遊ぶ訳でもなく、会社と家の往復だけをするような平凡な日常を過ごす。家を出たかったのもあり、同社浜松工場に志願転勤。約1年間、浜松で暮らす。
1985年4月 同社退職
親から「どこへ行っても3年間はちゃんと勤めろ」と言われたこともあり、3年過ぎたのと何か自分らしい生き方をしたいと思い始めて退職。しばらくプー太郎生活。その頃愛読していた「あいつとララバイ」の主人公・研二が北海道へ行く場面を読んで、北海道へ旅に出る。旅の途中で1ヶ月半くらい富良野の牧場でアルバイト。延べ1ヶ月半は車で野宿をしながら利尻島・礼文島も含む、北海道制覇。北海道へ行ったら何かロマンスが生まれるかもと結構期待して行ったが何も起こらず。 帰宅後、何か仕事はしなければいけないので職探し中、亀山に新しく工場を建てる埼玉本社の会社を発見。何となく東京近郊へ行きたかったので、最初の1年くらいは埼玉勤務ということだったので就職する。
1985年9月 東洋電装・鶴ヶ島工場入社。
入社早々に配属されたところでかわいい子を発見。後に結婚することとなる。 寮生活でよく似た年代の仲間がいたので、結構楽しく過ごす。 北海道へ行ったことによって直接的に何かがあった訳ではなかったが、北海道へ行ったことで何か流れが変わったような気がする。 1年半後、同社亀山工場に転勤。 後輩として大量に新卒者が入ってきたので、なんとなく学生のノリ的な雰囲気で、わりと楽しく仕事に行っていた。
1987年11月 結婚。
1988年11月 長女誕生
子供が生まれてすぐに会社の待遇やあり方が嫌になり退職を決意。今度こそ、何か自分で始める!という決意し、自分の道を探すためにいくつかのアルバイトを掛け持ちでこなす。その中の一つの宅配便の配達という仕事に興味がわき、アルバイトでなく請負でやらないかという話があり独立。しばらくはそこの車を借りて業務をこなす。
1990年1月
1990年7月
軽貨物宅配事業としてカワキタエクスプレス開業。
次女誕生
最初の頃は、時間に縛られず自分がやったらやった分の報酬が得られることに喜びを感じていたが、小銭ができると凡人が考えるのは「楽して金を儲ける」ということ。株式投資や金の先物投資などにはまる。1年間で150万円損失。1個配達した報酬が200円という仕事をしているのに「何をしているんだ」と自己嫌悪に陥る。 そんなある日、ふらりと寄った本屋さんで「船井幸雄著 人間の研究」という本に出会う。それまでは、本宮ひろ志の「硬派銀次郎」と矢沢永吉の「成り上がり」とデールカーネギーの「人を動かす」が自分にとってバイブルだったが、その後、船井幸雄氏の本や関連の本にはまり、1年に数冊しか読まなかった読書が、1週間に5冊くらいは読むというペースが1年くらい続く。著名人に話を聞きにいったり、セミナーに参加したりしているうちに、環境問題に関心を持つ。

1993年2月 長男誕生
1994年1月 地球にイイコトやってる会設立。
1995年1月
1995年3月
会報「縁コロジー」創刊号発刊
会報「縁コロジー」第2号発刊
環境にいいといわれていたグッズの販売やセミナーを開催する。その頃も生業としては宅配事業をしていたが、その仕事に将来的なビジョンが描けず、何か世間に役立つことを事業にと考えつつも、大きくは繋がらず。いい話をする講師や、そこに集まる人達のやろうとしていることと人間性のギャップに疑問を持ち始めた頃に、阪神大震災が起こる。自分が目指すものが何で、今やるべきことが何かということに気づきはじめる。
1996年3月 会報「縁コロジー」第3号発刊
地球にイイコトやってる会解散 世の中のためになることをと気負うことをやめて、本業に集中。集中しだしたら仕事が増え、宅配事業だけでなく、納品代行業や海外引越事業を始める。順調に受注が増え、4tトラックの購入を検討。それまでは、白ナンバーの2tトラックで仕事をしていたが、いつまでも白ナンバーという訳にはいかないと思い、最初はすでに運送業をしているところのナンバーを借りようと相談にいったが、条件さえ整えばわりと簡単に一般運送事業の認可が取れるということで法人を立ち上げることを決意。
1998年2月 一般貨物運送事業として株式会社カワキタエクスプレス設立。
同社代表取締役に就任。 一般貨物運送事業を始めたものの、事業としては宅配と引越。 運送事業者との繋がりがほとんどなく、関東へ行った時の帰り荷や関東からの輸送の依頼に対応できなかった頃に全国ネットワークの求車求荷システム「ネットワークKIT」と出会う。 ちょうどインターネットがはやり始めた頃で、インターネットを使った(当時はまだインターネットにはなっていなかった)求車求荷システムということと全国で1500社くらいの運送事業者と一気にネットワークが組めるということに魅力を感じ、ネットワークKITに加盟を決定。ただし、既存の組合には事実上入会させてもらえなかったので、協同組合設立を決意。
2001年2月 ロジネット協同組合 理事長に就任。
2001年8月~2002年1月 運送事業協同組合の活性化促進のための21世紀委員会委員に就任(日貨協連
2002年7月~2003年1月 物流連携効率化事業委員会委員に就任(岡山県中央会)
2002年7月~2003年12月 KITインターネットトライアル研究会委員に就任(全ト協
2002年8月~2003年2月 中小企業組合等活路開拓事業に係る調査検討委員会委員に就任(日貨協連
組合設立と同時期に、自分自身のモチベーションが過去最低のどん底に向って進み始める。約2年間、家庭も仕事もボロボロ状態に。自分自身のどん底を味わう。その頃にはうつ病という病気はあまり知られていなかったが、もし、あの頃にそんなことが言われていたら、間違いなくうつ病と診断され、病気になってしまったと思う。ただ、組合に関連する活動をしていたので、何とか自分を保つことができた。 会社の預金通帳の月末残高が数千円という状態が続き、会社をつぶすか続けるかという瀬戸際までいき、ようやくやる気を取り戻し始める。 しばらくは毎日「明日になったらまたやる気をなくしているんじゃないか」という不安な気持ちを持ちながら仕事をしていた。不安を無くすためもあり、メンタルヘルスやTA、NLPなどの心理学を学ぶ。
2003年11月 組合の今後の在り方についてというような題目で初講演(日貨協連
日貨協連の青年部組織YOUの幹部メンバーに向けて、組合の今後の在り方について話をしてほしいと依頼。ちょっと調子に乗り始めた頃だったので快諾。初めて講演をするのに行きの新幹線で内容を考えるというなめよう。結果は大恥をかいた。相手は3代・4代続いているある程度の規模がある老舗の運送会社の後継者。こちらはといえば年間売上が1億も満たない設立5年くらいの会社。思いっきり冷たい視線とアウェイな雰囲気。 でも、おかげでそれまであまり規模などを意識していなかったが、「絶対に見返してやる!」と火がつき、規模拡大を目指す。同時に、物流業というのは縁の下の力持ちで、表立って感謝されることは少ないが、どれだけ世の中が便利になっても、人の営むがある限り、物流というものは決してなくならない。誰かがやらなければならない必要な仕事を、環境への負荷を軽減し、人に優しく、安全第一で、サービス業としての地位を確立し、ドライバーという仕事に夢が持て、誇りある地位の高い職業にする礎になる企業として発展することを目指し始める。並行して、話し方講座・プレゼン講座・フォトリーディング・マインドマップ・マーケティングセミナーなど、自己啓発にも力を入れる。
2004年4月~2006年3月 トラボックス委員に就任(トラボックス
2004年5月~2005年3月 WebKITシステム改善検討委員会委員に就任(全ト協
2005年5月~ WebKIT事業推進委員会委員に就任(日貨協連
2006年4月 ゴルフデビュー 
初スコア141 講演回数2回 日常業務は幹部に任せられるようになり、あまり事務所にいると悪いところに目がいきついつい口出しをしたくなるので、ゴルフを始める。この時期、それまでは自分のモチベーションを上げる、自分のスキルを高めることの勉強が多かったが、経営品質や経営計画、人材教育や組織作りなどの実務的な勉強も始める。
2007年 講演回数1回
2008年 講演回数5回(事例紹介的な事も含む)
2008年 5月~ WebKIT事業適正化委員会副委員に就任(日貨協連
2009年 講演回数4回(事例紹介的な事も含む)
2009年5月~ ローカルネットワーク東海北陸地域本部システム委員会委員に就任
2010年6月~ WebKITシステム改修に係るワーキンググループ座長に就任(日貨協連
2011年7月~   ローカルネットワーク東海北陸地域本部積み合わせ部会部会長就任